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第3章 世界の宗教

<世界の宗教の起こり>contents 目次へ   ttplanningへ戻る

  第2章において、紀元前からすでに、ヒトの集落の中で宗教的行事が行われていたことを述べた。しかも、世界の各地に広がったヒトの祖先が、お互いの情報交換がないにも拘わらず、同時代に別々の場所で似たような行動をしていることは不思議といえよう。

 古代からヒトが複数集まると、自然に太陽や火や水に対する感謝をするようになり、それが何か宗教的集まりとなっていったようである。多くの古い洞窟の壁にヒトが宗教的な絵を描いたものが多く発見されていることからもわかる。しかし1つの民族(或いは部族)によって信仰される民族宗教が、11人の持つ信仰とは異なる集団に共通して行われるようになれば宗教の始まりといえよう。

 日本では、宗教法人の法律(昭和2643日法律第126)があり、認可されれば法人として定義されると同時に法律上の優遇制度が設けられている。しかし宗教の定義はかなりあいまいであり、宗教法人ではなくても誰でも宗教活動をすることが出来る。宗教法人の条件としては何もその戒律が正しいのかどうか内容には全く触れていない。ただ法人の設備とか資産とかを護ることだけのための法律なのである。本書で問題とするのは宗教活動の実態なので、これ以上法律のことは触れない。

世界の宗教の数は個人的な宗教を含めれば、無限にあるといってよいほど存在している。しかし、最近(20074月)のインターネットによるWikipediaの情報によると、キリスト教が20億人(33%,イスラム教13億人(22%), ヒンドウ教9億人(15%),仏教36000万人(6%)、儒教・道教23000万人(4%), 無宗教85000万人(14%)、その他(6%程度)となっている。一般にキリスト教、イスラム教、仏教は世界宗教と呼ばれ、人種や民族、文化の枠を超えて広範な範囲に広がっている。特定の地域や民族にのみ信仰される宗教として、民族宗教と分類される宗教がある。古代におけるユダヤ教、ジャイナ教、シーク教、ゾロアスター教、バラモン教、道教、神道などである。上記の世界宗教であってもそれぞれに多くの派に分かれているので、実際のところ何がどうなっているか実態を把握することが大変難しい。上記した信者の数についても、ほんとの信者の数かどうか正確に判断はできない。日本で宗教法人として登録されている団体は、神道系85,212団体、仏教系77,640団体、キリスト教系4,445団体、諸教15,337団体がある(文化庁「宗教年鑑」)

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<世界の4大宗教>

 前述のように、ある定義ではユダヤ教は民族宗教であって、世界宗教ではないが、ここでは、他の宗教との関係で世界4大宗教として取り扱う。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は起源が旧約聖書であり、仏教は全く独立した宗教として世界に広まっている。「宗教」とは最高神(主神)、始祖(または預言者),経典、教団組織を持っているものと定義しておこう。世界最古のものは、ヤハウエ(エホバ)すなわち旧約聖書を持つユダヤ教(B.C.12世紀)であり、それにアフラ・マツダ(ツアラトストラ)をもつゾロアスター教(B.C.7世紀)である。その次に仏教(B.C.5世紀)であろうか(参考資料17

ユダヤ教が何故ほんとの世界宗教にならないか? それはユダヤ人だけが信仰し、ユダヤ人だけの宗教としたからである。当時はアフリカの原人から進化した新人がアラビア半島近辺に生息する人口の少ない時代、頭の良いユダヤ人以外は、極論すれば人間ではないと思っていたのだろう。ユダヤ人以外のバビロニア人もエジプト人もギリシャ人もローマ人も完全な宗教を持たなかったのである。歴史的には最も古い宗教の一つとして、古代エジプトの宗教、バビロニア・アッシリアの宗教、ギリシャ・ローマの宗教、古代北欧の宗教、マニ教、マヤ・アステカ・インカなど古代アメリカ大陸の宗教もあったが世界宗教としては残らなかった。

<ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の経典、旧約聖書>

 世界宗教の中のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の経典は全て旧約聖書に始まる。最初の創世記の冒頭に、「初めに神が天と地を創造した」、とある。日本人がよく誤解していることに、旧約聖書と新約聖書の約は翻訳の訳と思い込んでいることである。これらの聖書は神と民との「約束」を書き連ねたことであるから、このことを理解しておくことが大事である。

 ユダヤの旧約聖書はいつ頃できたのか?これが出発点であり、キリスト教の新約聖書につながり、イスラム教の啓典へとつながっていくのである。それはB.C.13世紀に起きた「出エジプト」の事件から始まる。キリストの誕生前1200年の歴史を持っている。

 イスラエル民族は人口では中規模であった。パレスチナと呼ぶ地域に住み、西は地中海、東はアラビアの砂漠であった。南にはエジプト、北にはシリア、小アジア、メソポタミアへとつながっていた。従って、この地域は方々から民族が入れるところであった。パレスチナでは住民の大多数がユダヤ人であった。ユダヤ人はユダヤ教徒であり、エホバ(ヤーヴェともいう)が彼らの神であった。彼らは民族中心主義であり、ユダヤ人は他の民族より優れているとされていた。(参考資料17

当初ユダヤ民族の宗教であり、他民族の神々とは全く相容れるものではなかった。しかし他民族と接触が多くなるにつれて、普遍主義的な考えが生じてきた。神が「創造の神」だとの考えに変化してきたのである。しかしユダヤ教はあくまで民族中心主義であり、そこにユダヤ人の間にも葛藤が現れた。キリストもユダヤ人であったが、神の教えは普遍的なものとして運動を始めたので、ユダヤに排斥されて最後は十字架にかけられたのである。

キリスト教の母胎となったユダヤ教は民族中心主義的であると同時に、ご利益宗教的でもあった。この頃はまだ旧約聖書は出来上がっていない。印刷技術もないから口写しに伝えられたことだろう、しかしユダヤ教の成立はB.C.13世紀頃と考えられる。参考資料17の著者によると、この頃のユダヤ民族宗教としては、古代イスラエルの宗教と呼ぶべきであるとのこと。固有の特徴を備えるようになったB.C.6世紀の「バビロン捕囚」の時期以降がユダヤ教の時期に分けられる。(図表10


この時代に当時のエジプト王朝(第19王朝)のもとで奴隷状態にあって苦しんでいた者たちが、モーゼという指導者のもと、大挙してエジプトから脱走した。モーゼという人の大きな指導力があったから成功したものと思われる。しかし彼らは、これは神のお陰だと考えた。この結果、彼らはエホバ(ヤーヴェ)を崇拝することにおいて一致団結することになったのである。

さらに大事な事件は「カナンへの定着」であった。現在のパレスチナと呼ばれる地域である。エジプトから脱走した集団は最初「荒野をさまよっていた」のである。半世紀くらい経ってから、彼らはカナンの地へ侵入して定着した。この「出エジプト」と「カナンへの定着」の二つの歴史的大事件の結果、神を崇拝するイスラエル民族が成立した。これが古代イスラエル教の成立である。

時代が進むうちに、周りの民族の攻勢もひどくなってくる。さらにイスラエルの団結を強めなければならない。そこで中央集権的な国つくりが始まり、B.C.11世紀にはこの動きが本格的となり、国を治める王が現れた。はっきり国として定着したのは2番目のダビデ王の時であった。ダビデ王の後がソロモンであった。ダビデがエルサレムを首都と決め、ソロモンがエルサレムに神殿を建築した。この後、軍事的な領土の拡大、経済的な反映をもたらし、「ソロモンの栄華」と呼ばれた。

B.C.10世紀後半(B.C.932年)ソロモン王の没後にイスラエルは南北の二つの国に分裂してしまった。もともと民族の違う人の共存する中で一つのイスラエルがあって、ダビデとソロモンは南部出身であった。ダビデ・ソロモンに対する北の反感が強く、圧政に苦しむ北が独立した。しかしエホバの宗教は共存していた。南北の王国は200年続いたが、B.C.8世紀に国際情勢が変化した。メソポタミアの上流地域でアッシリアの勢力が拡大、B.C.8世紀の後半になると北はアッシリアに滅ぼされてしまった。その後しばらく続いた南の王国もB.C.6世紀前半になってバビロニアに滅ぼされてしまった。

この後、ユダヤ人の多くは土地を失った流浪の民として、世界中に散り、頭の良い彼らは各国で政治、経済、科学、その他多くの分野で活躍する。しかし南北の王国が無くなっても、彼らのエホバの神は多くのユダヤ人によって護られてユダヤ教として残るのである。

ユダヤ教としての神の守護があるために、領土はあくまでも「神からあたえられた土地」であり、エルサレムにある神殿は「神の住む家」とされていた。

 旧約聖書は、まだこの頃存在していない。従って教えの基本は、ユダヤ人同士の口伝えによって、引き継がれたものと考えられる。その教えとは、契約の概念と罪の考え方である。ユダヤ教の旧約聖書は、B.C.5世紀からB.C.4世紀頃に1世紀の期間かけて成立した。キリスト教の新約聖書に書かれているような文書はA.D.1世紀以降のことである。

 

<キリスト教の始まり>

 これまで述べてきたように、キリストはユダヤ人であり、ユダヤ教の預言者の一人であった。ユダヤ民族だけの民族宗教であったユダヤ教を全ての人に広げようとの普遍化のための宣教をキリストが始めたのである。イエス・キリストのイエスは「救い」の意味であり、キリストはヘブライ語の「メシア(救世主)」をギリシャ語に訳したものである。

 参考資料18によると、イエスの両親は敬虔なユダヤ教徒であった。イエスは旧約聖書の「モーゼ五書」を学んだのち大工となり、母や兄弟を養うようになり、紀元後28年頃、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、ヨハネが創始した洗礼運動に身を投じた。

 その後はヨハネから離れ、独自の布教活動を行った。この頃イエスは盲人の目を見えるようにするなど色々の奇跡を行ったとされている。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、不満を抱く住民が多く、救世主の出現を期待していた多くの人がキリストの所へ集まった。イエスはその中から12人の弟子を選んで、布教活動をおこなった。エルサレムでイエスはユダヤ教の戒律が人間性を否定することと非難し、ユダヤからは弾劾されることになった。最後は十字架にて磔の刑となった。

キリスト教の教えの基本となるのは、1)三位一体 2)贖罪信仰 3)アダムとエバ

である。これらを説明することはしないが、信仰の中心はあらゆるものの創造主である「全能の神」の信仰である。元はユダヤ教であった旧約聖書を取り入れ、新約聖書と合わせて初めてキリスト教の経典となる。新約聖書で初めて現れた「三位一体」の考えは独自のものであり、議論の対象となろう。神は一つであるべきで、その形が父と子と精霊となって現れているのである。

 旧約聖書と新約聖書の構成だけを羅列しておく。

<旧約聖書>

    モーゼ五書(律法書)  5
    歴史書        12
          詩書          5
    大預言書        5
    小預言書       12 

<新約聖書>

    福音書         4
    歴史書         1
    パウロの書簡     13
    公同書簡        8
    預言書         1

イエスの死後、ユダヤ教による迫害を受けながらも、使徒・パウロらの活躍により、キリスト教は地中海沿岸をはじめ、ギリシャ、ローマへと拡大していった。その後プロテスタントなどいくつかの宗派に分かれたが、その基本は変わらない。図表11には世界の地域による広がり方を示している。


ユダヤ教とキリスト教は本質的に相容れない。それは前述したように、キリストはユダヤ人であってユダヤ教徒であったのが離反して独自の教理を開いたからである。しかも自分自身が神の子として神からの指示を受けていると主張するのだから当然のことかも知れない。しかし、ユダヤ教もキリスト教も、後に触れるイスラム教も起源となる神は同一のはずではないか?と筆者は考える。

宗教の出発は人間生活の中で、ヒトが他の動物と違うことに気がついたときに始まっている。すなわち弱肉強食の動物とは異なり、他を助ける心の現われである。いずれの世界宗教にも見られる戒の心、これは部分的に共通している。旧約聖書では、出エジプトでモーゼの十戒が神の啓示によって示されている。

第一戒 あなたには私のほかに何ものも神としてはならない

第ニ戒 あなたは自分のために刻んだ像をつくってはならない

第三戒 あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならい

第四戒 安息日を覚え、これを聖なる物としなさい

第五戒 あなたの父と母を敬いなさい

第六戒 あなたは殺してはならない

第七戒 あなたは姦淫してはならない

第八戒 あなたは盗んではならない

第九戒 あなたは隣人について偽証してはならない

第十戒 あなたは隣人の家をむさぼってはならない

ここで、ユダヤ教とキリスト教の相違点を列挙しておこう。(参考資料19) このようにユダヤ教もキリスト教も信仰する神はおなじである。いずれもこの世の創始者としての神を信仰しているわけである。何故対立しているように見えるのか?それは上の図表12で示したように 1)聖地エルサレムが同じであるから、2)キリストはユダヤ人でありながらユダヤ教を裏切った、とされているからである。

() エルサレムの聖地に入るには8個の異なる入り口がある。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教のための入り口である。筆者は10数年前にユダヤ人に案内されて、ユダヤの入り口から入ったが、中には通路がいくらもあり町をつくっている。結局キリストのお墓にも行くことが出来たし、外部ほどの対立はなかった。

前に図表10で説明したようにイスラエル国は回りの国から滅ぼされて、ユダヤ人は世界中に散った。しかしA.D.一世紀の頃からユダヤ人による聖地の奪回運動ははじめられており、執拗に続けられた。世界の各国でユダヤ人は活躍しながら、逆に排斥され、ドイツのナチスによるユダヤ人に対するホロコースト(集団虐殺)はよく知られているとおりである。

 ユダヤ人の長い間の祈願である祖国再建はやっと1880年代に入って実現の兆しが見える。世界シオニスト機構が結成され、運動が一段と激しく動き、ついに1908年にパレスチナに事務所が開設された。イスラエルとパレスチナの紛争はここからすでに始まっていたわけである。19485月にはイスラエル独立宣言が行われて、現在のイスラエル国が確立した。

(詳細は参考資料19を参照いただきたい)



<世界宗教 イスラム教>

 イスラム教はA.D.7世紀頃、西アラビアに生まれた宗教である。イスラムとは「神に対して絶対的に帰依する」という意味で唯一絶対の神「アッラー」への服従をあらわしている。現在、世界に13億人といわれるムスリム(イスラム教徒)は一日に5回、メッカの方角に向いて祈りを捧げる。人間のさまざまな行動の規範となっている聖典「コーラン(クルアーン)」には現世の人のとるべき行動、善悪の全てについて神の言葉として書かれている。(参考資料19

 イスラム教の開祖はムハンマド(日本では長い間、モハメッドと呼んでいた)である。彼は神ではなく預言者である。ムハンマドはA.D.570年頃、西アラビアのメッカで生まれている。メッカは砂漠の中にあるオアシスの一つであった。両親は幼いときに亡くし、成長した彼は商人として隊商にも参加している。

  商人であるムハンマドは山にこもって勤行を始め、40歳になったとき、突然「最初の啓示」を神から受けたという。当時の多神教と偶像崇拝を排斥するものだった。メッカ市民の信者が増えるにつれて、次第に迫害を受けるようになった。(参考資料18)

 迫害の続く中で、ムハンマドは信者とともに、キリスト教を信じる王が支配するエチオピアへ集団避難した。A.D.619年ムハンマドに悲劇が起こった。叔父と妻の死である。ここで一つの奇跡を体験したという。それは、夜に天使が現れ彼をエルサレムに連れて行った。そこでムハンマドはキリスト教の聖書に登場する、アダム、アブラハム、ヨセフ、イエスとヨハネ、モーゼ、アロン、エノク等に会ったという。このとき、神から一日に5回の礼拝を義務付けられた。アッラーは姿も形も色もなく、人間の目に映る姿もなく、この宇宙に偏在するものである。これは「旧約聖書」の偶像否定に深くつながるもので、実際にイスラム教のモスク(礼拝堂)には、聖像や聖人画など何もない。(参考資料19

 ムハンマドは迫害を受けながらも、信者とメッカを脱出して北方のメディナ(ヤスリブ)へ避難した(聖遷という)、A.D.622年のことである。このときをイスラム暦で元年と呼んでいる。メディナにムハンマドの住居件モスクを建築した。憲章には、信仰の自由やあらゆる階級、肌の色に関わらず平和共存することが明記されている。外からの侵略に対しては戦うことも記されている。これをジハード(聖戦)と呼んでいる。(参考資料17)

 イスラム教の経典は旧約聖書とコーランであり、コーランにはムハンマドが受けた114の啓示が示されている。それが「聖句」となる。啓典として最も神聖なものは1)旧約聖書中のモーゼ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、2)旧約聖書のダビデへの「詩篇」3)新約聖書のイエスへの「福音書」4)コーランの四つであるという。

  コーランはムハンマドの死後、後年、内容別に編集したものである。神の唯一絶対性、人間の義務、来るべき審判の日などが書かれ、後に編集されたのには巡礼、食べ物、結婚、殺人、喜捨、姦通、などの儀式、民法、刑法などに関しても書かれている。

ここで、ユダヤ教とイスラム教の相違点を列挙しておこう。(参考資料19) これを図表13に示した。


ユダヤ教とイスラム教とも当初は友好的であった。どちらも絶対唯一神を信仰する啓典の民であり、旧約聖書を聖典としているのである。何故対立するようになったか? それはユダヤ側に原因がある。イエス・キリストに対して行ったと同じように、ムハンマドを預言者として認めなかったのである。イスラム教とキリスト教も対立している。どちらも絶対唯一神を仰ぎ、どちらも万民のための宗教であるにも関わらず対立している。それはユダヤ教とおなじようにイスラム側がイエス・キリストを預言者として認めなかったからである。

 日本人がよく理解できないことに、イスラム教の内部で多くの派にわかれて、しかも殺し合いの闘争を行っていることである。その元は、イスラム教ではキリスト教のように教義の解釈をめぐっての分派ではなく、どんな指導者がいるかの違いによって分派ができているのである。ムハンマドの死後は、預言者は他にいない。単に神の使徒の代理人として「カリフ」という称号の指導者を選ぶようになったのである。何人もの「カリフ」が出て、いくつかの派に分かれていったのが現在のイスラム教である。

よく知られている「シーア派」と「スンニー派」は、ムハンマドから4代目の後継者の時に反対派からの攻撃が過度になり暗殺が繰り返されて、引き継がれている。その経緯は触れないことにして、イランの国教となっている「シーア派」は過激な分派である。しかし世界全体でみると、シーア派は1割、スンニー派は9割を占めている。

<世界宗教 仏教>

 仏教はB.C.6世紀からB.C.5世紀にかけて、ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さま或いはブッダと呼ぶ)が開かれた。現在インドとネパールの国境付近(ルンビニー)に釈迦族が暮らしていた。族内の高官の長男として生まれ、母親はお産後7日目に亡くなっている。ブッダは、裕福な家庭に育ったが、生まれてすぐに母親を失ったためか、人間に訪れる生老病死、苦悩などに関心を持っていたという。16歳で結婚、20代後半で一子をもうけるなど、何不自由のない生活を送っていた。

しかし、ブッダは毎日を楽しむ気持ちを持たず、人生の意味や苦悩について考えるときが続いた。29歳の時、妻と子供を残して出家、修行者として世を渡り始めた。6年間、断食や自分の体を痛めつける苦行を重ねて、悟りを開くための修行を続ける。

ガヤーという村の樹下で瞑想に入り、6年間続けた結果、悟りを開いた。そこでサンスクリット語で悟りを得た人を意味する「ブッダ」と呼ばれるようになった。ガヤーという村の名前は「ブッダガヤー」となった。

6年間の苦行をともにした5人の仲間と共に説法をしたのが始まりで、初転法輪という仏教の起源である。5人と共にインド・ネパール周辺を精力的に説いて回る伝道が開始された。35歳で悟りを開き、その後45年間の布教を続けた結果、死期を意識して弟子たちに「とにかく精進すること、修業に励むこと」を伝えて生誕の地・ルンビーニへ向かった。しかし到達できず途中の村、クシナガラで入滅した。(参考資料18

 ブッダの入滅後に弟子たちが手分けをして、説かれた教えを書き写し、編集したお経が仏教の経典である。仏教の経典は84千の法門といわれるほど膨大なものである。その経典は1420部にものぼる。釈尊の教えを言葉の通り正確に解釈をしていこうとする上座部(テーラバーダ)の編集したもの(小乗経典)と、釈尊の教えを自由に解釈し、大衆が親しめるものにしようとする大衆部(マハーサンギガ)の編集したもの(大乗経典)がある。前者は東南アジアに広まり、後者はインドからチベット、中国を経て日本に伝わった。西暦紀元前後に編集された大乗経典の柱になるのが「般若経」「法華経」「浄土経」「華厳経」などである。(参考資料20

仏教は世界4大宗教の他の3宗教とは全く異なり、神や創造主については全く触れていない。仏陀は佛・法・僧の僧の一人なのである。仏教の信仰の基本とはこの佛・法・僧・(三宝という)に帰依することである。ただ形だけの祈りでは帰依することは出来ない。仏陀が弟子に「とにかく精進すること、修業に励むこと」と教えられたのは、その難しさを示唆されたものだろう。

仏教の根本に置かれる教えとして、三法印がある。その第一は「諸行無常」この世に存在するあらゆる生き物やものは流転し続け、一箇所にとどまることはない、第二は「諸法無我」すべての存在に「我」という主体は存在せず変化に従い、受け入れていく、第三は「涅槃寂靜」無常・無我を自覚し、それにもとずいた生活を行って煩悩を滅するよう心がける、の三つをいう。最後の涅槃寂靜が我々の目指すべきものである。

仏陀の入滅後、10大弟子の熱心な布教活動によって北インド、西インド、南インドと広がっていった。さらにチベット、中国、日本、東南アジアと海外へ広がるにつれて、解釈の違いによる多くの宗派に分かれていった。

ここに上座部仏教と大乗仏教の解釈の違いを示しておく。(参考資料18

これを図表14に示した。 

仏教が中国へ伝来したのはA.D.1世紀頃、朝鮮半島に4世紀半頃伝来した。6世紀になって、当時の百済国から日本に輸入された。仏教導入のための聖徳太子などの活躍はよく知られている通りである。日本の古来仏教の宗派は全て、中国の13宗派(6~8世紀)から来ている。これを図表15に示した。

日本の仏教の宗派は、同一宗派でもいくつもの派に分かれている。例えば南禅寺派臨済宗といった具合である。以上、仏教について概観したものの、その膨大な教え等書きつくすことは出来ない。日本の宗教についての問題は次の第4章で取り扱う。

<参考資料>
16. 世界の宗教と経典(総解説)   19931130日 第1 刷 自由国民社
17. 一神教の誕生   加藤 隆 著       2004322日 第5刷  講談社 現代新書
18. 世界の宗教    星川啓慈 監修      200668日 第1 刷  実業の日本社
19. 図解 世界の宗教と民族紛争 ひろさちや 監修1996730日 第1刷  ()主婦と生活社
20. 般若心経のすべて 公方俊良 著       19881115日 第7刷  日本実業出版社

 

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